AGARAKiiLifeみかんKiiSearch

「命の尊さ」

 神奈川県で起きた9人連続殺害事件に驚いた。「一緒に死のう」とネットで呼び掛け、応じた男女9人を次々に殺害し、金品を奪った世紀の猟奇事件だ。容疑者の自供と伝えられる「本気で死のうと考えていた被害者はいなかった」という言葉に事件の深淵(しんえん)が見える。

 ▼彼はバラバラにした死体を箱詰めにして起居を共にしていた。人を物体として扱い、命への敬意も死者への哀悼もない▼この事件の対極にある夏目漱石の『こころ』を私は思い出した。未亡人とその娘の家へ下宿した主人公は、苦境にある友人を同居させる。ある日、その友人から娘さんへの切ない思慕を打ち明けられる。同じ思いの主人公は、友人を出し抜いて母親に直談判し、将来結婚する承諾を得る。

 ▼その話を未亡人から聞いた友人は微笑を浮かべて彼に祝意を述べ、遺書にも恨み言一つ書かずに自殺する。主人公は大学卒業後に結婚したものの妻に真実を打ち明ける勇気はなく、友の墓前でひたすら泣いてわびる。そんな苦悩の末、自分も死で償う決心をする。

 ▼これは信義、友情、愛といったテーマに正面から向き合った名作だ。高校の教科書にも取り上げられ、共感を呼んだ。

 ▼今度の容疑者に見られるのは利己愛だけ。『こころ』の美しくも意志的な自死の世界とは対照的で、命を奪う悩みも、事件への反省もない。古い私は、その胸中を理解できず、ただ時の移ろいを感じている。 (倫)


更新)