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《16》旅の夜

 今回の旅のテーマは、お酒だった。7月、飛行機の機内誌の挿画を描くため、私は北フランス、ノルマンディー地方のドーヴィルに来ていた。

 ノルマンディーのお酒シードルは、リンゴで作られたビールのような飲み物。ワインに比べ、アルコール度数が低く、お昼どきの食堂でも親しまれる。

 ドーヴィルのマルシェをのぞくと、パリでは見掛けないラベルの貼られたシードルが手に入った。その日は戸外での制作を早めに切り上げ、夕方のホテルに戻った。光あふれる部屋のテーブルに、シードルを配置し、静物画を描く。旅先のホテルには、絵を描くのにぴったりな空気感がある。

 仕事が一段落し、私は海辺の散歩に出掛けることにした。引き潮が遠浅の海岸をつくり出し、人々が海に向かって広大な干潟を散歩している。もう夜の9時近くだというのに、まだ光がある。

 私は砂浜に腰を下ろし、絵の具箱を広げた。どれぐらい描いただろうか。背後に人の気配を感じ振り返ると、そこには、大柄のインド人が立っていた。立派なターバン姿の若者は絵をのぞき込むわけでもなく何を話すでもなく、一定の距離を保って、その場を離れなかった。そして、にっこりとほほ笑んで、私にたばこを勧めてきた。どこか非現実的な夕暮れ。

 波打ち際はどこまでも遠のいてゆき、日没後の残光が夏の風を透明な青に染めてゆく。それは、遠いどこかにつながりそうな、なにものでもない時間だった。

 再びホテルに戻り、宿の主人から間借りした冷蔵庫より冷えたシードルを取り出し、細く薄暗い階段を上る。もうみんな休んでいるのか、小さなホテルは静けさに包まれていた。

 すっかりアトリエと化した部屋で一人、注いだ琥珀(こはく)色より生まれる微かな泡の音に耳を傾けながら、旅の夜は過ぎていった。



【夜の海岸を散歩する人々の姿が、遠い波打ち際に揺れる】

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