和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2020年08月14日(金)

語り継ぐ記憶(1)動員先の名古屋で空襲/坂本勲生(さかもと いさお)さん(92)田辺市本宮町本宮

坂本勲生さん
坂本勲生さん
語り継ぐ記憶題字
語り継ぐ記憶題字
 戦後75年。戦争を知らない世代が増えているいま、自身の戦争体験を語れる人は年々少なくなっている。8月15日を前に、次世代への伝言ともいうべき証言を集めた「語り継ぐ記憶」を連載する。

 三重県熊野市に生まれ、小学4年生から本籍地の和歌山県田辺市本宮町(当時の請川村上大野)で育った。兵隊さんに憧れ、尋常高等小学校高等科を卒業後は軍の学校に行きたいと話すと「兵隊になったら死ぬんや。絶対にあかん」と父親に激怒された。その悩みを聞いた小学校時代の校長が「進学させてあげて」と父親を説得してくれ、1943(昭和18)年、和歌山師範学校(和歌山市)の予科1年に入学した。

 しかし、太平洋戦争の戦況は刻々と悪化。44年夏には学徒勤労令で名古屋市にある住友金属の工場に配属され、戦闘機「隼(はやぶさ)」「飛燕(ひえん)」の部品をつくる作業に従事した。

 当時16歳。市内には多くの軍需工場があり空襲にも遭ったが、働いていた工場は中心地から外れており、当初はあまり怖いと思わなかった。しかし、半年ほどたったころから焼夷(しょうい)弾の威力が増し、地域一帯を無差別に狙うじゅうたん爆撃も行われるようになった。

 在学期間が短縮され、本科1年に進級した45年の6月9日。空襲警報が鳴り工場の外に出ると、爆弾が落ちてきているのが見えた。「これはあかん」。死を覚悟してその場に伏せた直後、爆風に吹き飛ばされ、近くにあった防空壕(ごう)に転がりこんだ。

 同じく逃げ込んできた女学生の腕を引き、少しでも工場から離れようと次の防空壕へ。そこには横っ腹に穴の開いた男性がいて「血を止めるものはないか」と聞かれた。ポケットに入れていた巻脚半を男性の腹に詰め、さらに走って別の防空壕に逃げ込んだ。

 ようやく警報が解除されて工場に戻ったが、その日、工場では150人余りが死んだと聞いた。死体の検分役を任され、教師と共に一体ずつ確認したが、同級生の死体はなかった。

 しかし寮に戻ると、同室の友人の姿がない。けが人が運ばれた病院を訪ね回っても見つからない。爆弾の直撃を受け、木っ端みじんになってしまったのだろうという結論になったのは、5日後だった。

 知らせを受け、寮を訪れた彼の母親は「息子を捜してくれてありがとう」と気丈に言ってくれたが、自分たちが部屋を出て行った後、枕を抱きしめて泣いていたと、後から寮母に聞かされた。母一人子一人の家庭だった。

 もう一日、忘れられないのが7月26日だ。夜8時ごろに空襲警報が鳴ったが爆撃はなく、寮に戻って寝ている生徒もいた。彼らをたたき起こして避難させる任務と、夜勤の生徒の荷物を持ち出す任務で最後まで寮に残っていた。

 深夜、寮に焼夷弾が直撃。各部屋を見回った後自室に戻ると、既に炎が広がっていた。慌てて寝押ししていたズボンを布団の下からつかんで飛び出した直後、建物が焼け落ちた。

 「くんせい生きとった」。愛称を呼び、泣きながら教師が抱きしめてくれたこと、つかんだズボンの膝から下が焼けて失われていたことが頭に焼き付いている。

 その後、和歌山市の師範学校に引き揚げたが、夏休み中もそこを工場にするための実習があった。そのさなかに広島と長崎に「新型爆弾」が落とされ、8月15日、玉音放送で無条件降伏を知った。

 「どんなに正当化しようとも戦争は破壊であり、人殺し以外の何でもない」。機会があるたびに自身の体験を語り、その思いを伝えている。